蓮如上人ご旧跡 御山

御山さんぽ

見玉尼のお墓

蓮如上人の第4子二女。幼くして喝食に出されていた。蓮如上人の吉崎御坊の建立をきき父のもとへ馳せ参じたが、まもなく病に伏せて1年余りで亡くなってしまった。蓮如上人は見玉尼を茶毘にふす前夜に不思議な夢を見られたことを御文(御文章)に書き記している。<帖外の御文>見玉尼享年26歳。蓮如上人には27人の子供がいて男13名、女14名である。

鹿島の森

日本海に大聖寺川が注ぐ河口に位置しており江戸時代には完全に独立した島であったといわれている。北潟湖の入り江と大聖寺川の河口で独特な水の流れをつくっており、北潟湖の牡蠣の養殖にも大きく影響を及ぼしていたといわれる。現在は大聖寺川が運んできた土砂により石川県に連なっている。室町時代、文明7年8月吉崎退去の際、蓮如上人は小舟によりこの北潟湖から日本海を経て小浜へと移動された。この時、夕日に照らされた吉崎のお山を振り返り「夜もすがら たたく船端吉崎の 鹿島続きの山ぞ恋しき」と句を残された。現在、鹿島の森は亜熱帯植物の原生林の森として日本最北端の位置づけになっている。

お腰掛けの石

室町時代の吉崎御坊の本堂西側の庭に据えられた庭石であり、石の質から地元のものではなく他より持ってきたものと思われる。蓮如上人はこの庭石によく腰掛けて日本海を眺めることを好まれたといわれ、今もそのおしりの温もりが残っているとされ、降雪時にもこの石の上の雪はいち早く溶けるといわれる。

本堂跡

調査発掘の際に基礎石が発見され、その数から間柱5間四面の大きさであったと推察された。大勢の人が参集された時には本堂に入りきらないため、本堂前の広場に平座になってお話をされたといわれている。

蓮如上人像

当時、帝室技芸員であった高村光雲の手により型が作られ鋳像された銅像で、高村光雲の3大名像の一つといわれる。(あと2つは楠木正成公、西郷隆盛公)戦前戦後を通じて国内に残った銅像としては貴重な存在になっている。

加賀の千代女の句碑

「朝顔に つるべとられて もらい水」で有名な俳人加賀の千代尼が懇願の吉崎詣でを果たし感激して詠んだ句である。「うつむいたとこが うてなや すみれぐさ」

お手植えのお花松

ある時、蓮如上人が本堂の飾りのお花松を地面に刺したところ、その松の小枝に根がついてすくすくと育ったといわれた。元の松は枯れてしまったが、その後2代目の松が植えられている。

本光坊了顕のお墓

蓮如上人の弟子のひとり。文明6年の大火の際に、本堂に取り残された親鸞聖人自筆の「教行信証」6巻の中の1巻を、燃え盛る本堂の中へ取りに入り見つけはしたが持ち出せないと判断し、自らの腹を切り裂きその中に隠し入れて火から守った。焼け跡から見つかった本光坊のお腹の中から、赤く血に染まってはいたが無事燃えずに発見されたその教行信証をみて、蓮如上人は感涙されたといわれている。その後、この本光坊の赤い血の色を忘れてならないとしてお経の本の表紙を朱色にしたといわれている。現在この「教行信証」は、国宝に指定されている。

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