蓮如さんと吉崎
蓮如は、開祖親鸞と並び、浄土真宗の指導者として、日本の偉大な宗教家として、この500年もの間、「蓮如さん」と親しみをもって呼ばれ、広く民衆の中に生き続けてきた。1415年 本願寺七世存如の長男として生まれ、43歳で本願寺八世として法燈をつぐや、その活発な布教活動により衰退にあった本願寺の勢力を向上させたが、比叡山延暦寺衆徒による本願寺攻撃・破却に遭い、近江(滋賀県)の金森、堅田など各地を転々とする。文明3年(1471年) 吉崎に坊舎「吉崎御坊」を建立し、布教の根拠地とした。蓮如が生み出した「講」、「御文章・御文」などによって、吉崎御坊には、身分・階級・性別・職業などとは関わりなく、多くの信者が集まり、親鸞の同朋(平等)思想が体現され、一大宗教都市を形成した。しかし、守護と門徒内の抗争を避けるため、文明7年(1475年) 吉崎を去るが、その後も、山科本願寺(京都)、石山本願寺(大阪)において、1499年85歳で入寂するまで、精力的に布教活動を続けた。
吉崎は、蓮如退去後は、朝倉氏によって坊舎は破却されるが、その後、真宗大谷派、浄土真宗本願寺派の寺院が建立され、蓮如を慕う多くの参拝者がおとずれることになる。蓮如が吉崎に築いたまちは「寺内町」の発祥ともいわれる。「寺内町」は、人々が物資や薬草などをもって集まり、それらを交換する場となり、職人や商人たちも集まってきて、自由なフリーマーケットが展開され、宗教自治都市が形成されることになった。蓮如は、吉崎退去後、石山本願寺(現在の大阪城の地)を創立し、その後、石山本願寺を中心として大坂寺内町ができて、今の大阪商業都市の原型がつくられたといわれる。
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
蓮如『白骨の御文(章)』
「蓮如は親鸞と違って、曲がりくねったデコボコ道を、ときには妥協し、ときには演技しながら、彼なりに必死で戦い抜いたのです。親鸞を求道者とするなら、蓮如は伝道者と言うべきかもしれません。両者は一つの真理をめざしながら、それぞれに異なった道を歩むことになるのです。蓮如は宗教的共同体のうちに中世民衆のアイデンティティを確立した人でした」 五木寛之『蓮如』